おそらく最速!第61回グラミー賞ノミネート予想(その1)

久しぶりのブログです。
今回は、普段のなんかよくわからん自己啓発本まがいの内容から離れ、趣味である音楽の話をがっつりしたいと思います。こっちの方が書きやすい。

さて、さっそく本題に入りましょう。
タイトルにもあるとおり、来年の2月に授賞式が行われる第61回グラミー賞の主要四部門にノミネートされる作品を、早くも予想してゆきたいと思います。
受賞作品の予想ではなく、ノミネート作品の予想です。ノミネート作品は例年12月初旬に発表されます。
そのノミネート作品を、地域で一番のグラミー賞マニアである私がいち早く予想してしまおう、と言うのが今回の趣旨です。

今回は1回目と言うことで、主要四部門のうち最優秀レコード賞に焦点を当てて予想していきます。
ノミネート対象となるのは2017年10月1日から2018年9月30日までに発表された楽曲です。
各部門にノミネートされる作品は8作品ずつです。去年までは5作品でしたが、今年からは主要四部門のみノミネート数が増えるそうです。

では行きましょう。


【最優秀レコード賞】


Perfect/Ed Sheeran (Duet with Beyonce)
ご存じエド・シーランとビヨンセのデュエット曲。昨年末から今年の初めにかけてNo.1獲得。
過去に最優秀楽曲賞を受賞したエドの“Thinking Out Loud”に曲調が似ているのでノミネートの可能性は大きいかと思われます。

This Is America/Childish Gambino
アメリカ社会が置かれた悲惨な状況を歌った、今年最大の問題作。二週連続全米1位。
おそらく今年の本命。

Havana/Camila Cabello feat. Young Thug
元フィフス・ハーモニーのカミラ、ソロデビュー。最高位1位。
曲は動画の2:30あたりから始まります。

No Tears Left To Cry/Ariana Grande
アリアナ・グランデが、自身のライブが襲われたテロ事件後はじめてリリースしたのがこの曲。全米で最高位3位。
個人的には“This Is America”と並んで今年の本命ではないかと思っています。

Finesse (Remix)/Bruno Mars feat. Cardi B
去年の主役、ブルーノ・マーズが昨年の最優秀アルバム“24K Magic”に収録のこの曲をラッパーのカーディ・Bを迎えてリミックス。週間最高位は3位。

Nice For What/Drake
2018年の全米チャートで、3曲にわたり29週もの間首位の座に居座り続けた、今年最強のドレイク。
ノミネートされるとしたらローリン・ヒルをサンプリングしたこの曲でしょう。この曲は8週間全米1位。
ただし、ドレイク側がノミネート自体を拒否する可能性も。

All The Stars/Kendrick Lamar, SZA
映画「ブラックパンサー」のサントラから。最高位は7位。
大穴ですが、最近の傾向から考えてもこの曲のノミネートの可能性は大いにあると思います。

Meant To Be/Bebe Rexha feat. Florida Georgia Line
今年のカントリー枠はおそらくこれでしょう。週間最高位は2位でした。


以上の8曲が、今年のグラミー最優秀レコード賞のノミネート予想になります。
発表が楽しみですね。

他の部門に関しても、追々予想を記事にあげる予定です。
それではまた。

運命論的なサムシング

あなたは運命を信じますか?

運命があるとして、それは一体どのようなものなのでしょうか。
私の考えでは、運命というのは人生のシナリオのようなものです。
自分の人生を客観的に俯瞰で見ると、生まれてから死ぬまでの一つのストーリーとして捉えることができます。
そのストーリーの進行を決めるシナリオが、いわゆる運命なのです。
ストーリーは現在進行形で上演中なので誰もこの先の展開を知ることはできませんが、既に運命というシナリオによって結末までが確定しているという解釈です。

さて、日々生活していると過去に見たことや聞いたことがきっかけで何か問題が解決したりすることがあると思います。
スティーブ・ジョブズが有名なスピーチで「点と点はいつか線で繋がれる」と表現していましたが、これは運命の伏線回収と考えることができます。
この考えにおいて、日々の生活のあらゆることが伏線となり得ます。
たとえば旅行先で見たちょっとした景色、授業で先生が言っていたこと、観た映画の内容など、これらのすべてが何かしらの伏線となる可能性が大いにあるわけです。

そう考えると、ちょっと面白くないですか?
ちょっと遠回りしているように感じるときでも、そこで体験したことが未来の自分に何かしらの形で影響を与えます。
そして、自分の思考や行動が過去の自分とつながったとき、そこに伏線回収の心地よさがあるのです。

日々の生活にちょっとした面白さを見いだせるので、私はこの考え方が気に入っています。
皆さんはどうでしょうか?

君はロックを聴かない

ユニバ大作戦、という事件をご存じでしょうか?
今月の7日、8日に起こった出来事です。

皆さんも覚えていると思いますが、この日の数日前から全国で記録的豪雨が猛威をふるっていました。
そのあおりを食らって、この二日間に開催が予定されていた「京都大作戦」というロックフェスが中止になったのが今回の発端です。

中止になったので全国からフェスに参加しようと集まった人たちは手持ち無沙汰になってしまった。
そこで、みんなでユニバに行こう、という計画が発案されました。これが「ユニバ大作戦」です。
ここまではわかる。問題はこの後です。

ユニバに集まった人々は撮影禁止場所での撮影、芝生エリアで音楽をかけてモッシュ、大声で歌う、挙げ句の果てにはクルーに注意されても聞かない、などの迷惑行為を繰り返していたそうです。
もちろんこの件はネットで炎上。
それに対して参加者たちは「批判している奴らは俺らが羨ましいだけの陰キャ」「俺たちは伝説の中にいる」等の反論を投稿し、さらに炎上することとなりました。

この件について、本人たちが迷惑行為に気づいていないという点や京都大作戦のイメージが悪くなることを問題視する声が多いですが、個人的には「彼らはロックを聴いていない」という点が残念でした。
彼らは京都大作戦に音楽を聴きに来たのではなく、音楽に合わせて暴れることが目的だったことが浮き彫りになったのです。
これが私にとっては腹立たしくて仕方がない。

今回に限らず、ロックフェスなどでモッシュやダイブを行う人間の中にはそれ自体が目的になってしまっている人がいます。
私の個人的な経験の中からピックアップすると、ステージに背を向けて跳びながら尻で押してくる人間や明らかに横ノリのリズムの曲なのに上に跳ねる人間、演奏中にも関わらず「やっぱり○○は盛り上がるな」と隣の友人としゃべっている人間などが挙げられます。
ライブというのは音楽という芸術を直接に味わう貴重な場なのに、そういう人間がいて他人に迷惑をかけているという状況が気に食わない。そんなに暴れたければ暴れたいやつらでクラブでも借り切って勝手にやってろ。生の音楽である必要性はどこにもないのだ。


ここからは私の勝手な個人的解釈ですが、ロックの本質は「抑圧からの解放」の音楽です。
ディランが“Like A Rolling Stone”を発表してからというもの、ロックに政治的意味が付加され、70年代のパンクムーブメントではまさに解放をうたった音楽が生まれました。90年代にはニルヴァーナウィーザーなどのオルタナ勢が頭角を現し、彼らの音楽は学校や家庭での地位が低いティーンエイジャーの精神的な逃げ道になっていました。

そして、ライブというのは解放・救済の音楽を作った本人たちが目の前で演奏してくれる、いわば音楽による究極の解放の場なのです。
それを、本質的に音楽を聴いていない人間に邪魔されるのは本当に苦痛なのです。
今回のユニバ大作戦を機に、一度この問題について考えてほしいものだと思っています。


最後に、ロックの本質をうまく表現した名歌詞を紹介して終わりたいと思います。



----僕はこんな歌で あんな歌で 恋を乗り越えてきた

あなたならどちらを選ぶのか

「未来」を見据えて生きるのと「今」を生きること、どちらが良い生き方なのだろうか?




私は「今」を生きることを選ぶ。

なぜか。「未来」のみを見ていると何かしらの不具合が生じた場合、一気に全てが崩れてしまうからだ。
例えば、オリンピックでの金メダルを目標に遊ぶ暇も惜しんで一生懸命練習に励んでいる人がいたとする。しかし、彼(もしくは彼女)が大怪我を負ってしまえば今までの努力が全て水の泡になってしまう。それまでの時間が無駄になってしまうのだ。

未来というのは、こうも儚く脆いものである。未来にとらわれることは、大きなリスクを伴う。
だから私は、「今」を生きたい。
いつ死んでも、いい人生だったと思えるような生き方をしたいのだ。
未来のために、と辛いことに耐えているその最中に死ぬなんてことがあったら、いくら悔やんでも悔やみきれない。

時間というのは「今」という瞬間の連続である。常に「今」を意識して生きれば、必然的に「未来」もいつかは意識される。無理に未来を生きようとしなくても良いのではないだろうか。

あくまで、これは私の理想・願望の話であり、何かを否定しようという意図はない。
何か非常に偉大なことを達成するためには努力が重要なこともまた事実で、それが実際に実を結んだ瞬間というのは美しいものである。



あなたならどちらを選ぶのか。

少年の日の思い出

人生を変えた一曲、というのは誰にでもあるだろう。
人生を変えたというのは少し大げさかもしれないが、ものの考え方や思想に何かしらの影響を与えた音楽があると思う。
それは未知との遭遇かもしれないし、歌詞を深くまで読み込んだ結果かもしれないが、とにかく、音楽を聴く人間には何かそういった類いの曲があるのだ。
私の場合、いろいろあるが一番はこの曲だ。


1991年、ニルヴァーナによって発表された不朽の名曲、“Smells Like Teen Spirit”である。
曲名は知らずとも、この曲を耳にしたことのある人は多いのではないだろうか。
それまでの派手な80年代ハードロックを覆すかのごとき荒削りなシンプルさで「グランジ」と呼ばれるジャンルを確立した記念碑的作品である。

さて、そんな“Smells Like Teen Spirit”であるが、私がこの曲をはじめて聴いたのは(記憶が定かではないが)14歳の頃である。
当時の私は、まだ音楽というものにのめり込みはじめた頃だった。ラジオから流れる音楽に耳を傾けながらいわゆる邦ロックを中心に聴いていた。
今の私を知る人からしたら驚きかもしれないが、当時の私はONE OK ROCKRADWIMPSなどのアルバムを近所のツタヤで借りてきては聴き込んでいた。

そんなある日、いつものようにラジオを聴いていると、“Smells Like”がかかった。
イントロを聴いた瞬間、稲妻に打ち抜かれたかのような衝撃が頭の中に走った。何かから解放されたかのような感覚を得た。
大げさではなく、当時の私は本当にそう感じたのだ。
何も凝ったことはしていないのに他の曲にはない膨大なエネルギーのような何かをこの曲は持っている。
その期待は、一曲を通して聴いても裏切られることはなかった。

このバンドには何か特別な技術があるわけではない。サウンドだって荒削りで、あまり凝っているようには思えない。
しかし、音楽にかける情熱、気迫、勢い、力強さ、そしてそれらから来るパワーに、当時の私は打ちのめされた。
邦ロックばかり聴いていた中学生には、その刺激は強すぎた。

それからしばらくの間は、狂ったようにこの曲を聴き続けた。携帯なんてもっていなかったから、親のいないときにパソコンで勝手にユーチューブを開いてこのビデオを見ていた。
ツタヤで借りてくるなんてことはできなかった。当時の私には刺激が強すぎて、聴いてはいけないもののように思われたのだ。

そして、バンドについても詳しく調べた。すると、この曲の作者でありバンドのボーカルのカート・コバーンが27歳で自殺していたという事実を知ることになった。これまた衝撃的だったことはいうまでもない。
この男は本物のロックスターだ、と思った。ロックスターの模範的な生き方だ、と思った。
私はそれに憧れた。正確に言えば、今でも憧れている。

以後は皆様の知るとおりである。
たまにブログに思想を吐き出しているが、それらの元をたどるとこの曲とカートの生き様が大きく影響している。
タイトルの解釈が違おうが何だろうが、私にとっては10代を象徴するアンセムなのだ。

ロックスター、というのは生き方である。ロックをやっているスターが全員ロックスターなのではない。
世の中に何か大きな衝撃を与えて去ってゆく、そんな生き方がロックスターなのである。
そして私は、それに対して未だに憧れを抱いている。
つまり私はそんなやつなのだ。

MOVING

こんにちは。久々の投稿です。

これまではパソコンでブログを書いていたのですが、今回は初めて携帯から投稿します。
というのも、私はただいま絶賛移動中。ワイドビューしなの9号の車内からお届けします。

特急列車って、なんかよく分からないけどちょっと贅沢な感じがしますよね。
暇なので、なぜ特急列車が贅沢なのか、ほかの移動手段と比較しながら考えてみようと思います。


では、まずはじめに「移動」の要素を考えてみましょう。
移動するには、時間とコストがかかります。また、移動中にどう感じるか、というのも重要です。
そこで、移動を「時間」「コスト」「快適さ」の3つの要素から見てゆきたいと思います。

さて、学生の長距離移動の手段で最もポピュラーなのは高速バスです。なぜポピュラーなのでしょうか。
一番の要因は「コスト」でしょう。特急列車や新幹線と比べるとその安さが際立ちます。しかし、実際のところは「コスト」だけだと鈍行列車とあまり変わりません。
そこで「時間」「快適さ」を考えてみましょう。

高速バスだとほぼノンストップで目的地まで向かうため、途中で何駅も停まる鈍行列車と比べてかなり早く到着します。
また、乗り換えなども考える必要がないため何も考えずに乗ることができ、その点では「快適さ」があると言えるでしょう。

しかし、高速バスは途中数カ所のサービスエリアに寄る以外は座りっぱなし、景色も見えづらく面白くないと言う人もいます。私がそうです。

その点、車窓を楽しみ立ちたい時には立てる列車は素晴らしい。長距離であれば途中下車などの可能性も広がります。
しかし、どうにも「時間」がかかる。これがどうにもネックになります。

そこを解決するのが、特急列車や新幹線です。鈍行列車の「快適さ」はそのままに、「時間」を大幅に短縮することができます。
その代わりに、「コスト」がかかるんですね。

ここまでのまとめとしては、高速バスが学生に人気なのは全ての要素において中間的な値をとりバランスが良いから、そして特急列車が贅沢なのは「コスト」をかけて「時間」と「快適さ」を得ているから、ということです。

さて、このように考えると何を重視するかによって「最適な移動手段」が変わることがわかります。

例えば、お金はないけど時間はある、という学生は「コスト」重視の鈍行列車が最適だろうし、時間のない社会人などは「時間」重視の移動手段が最適となるでしょう。


ここで議論したのはあくまで「移動手段」に関する話です。実際には移動ルートや誰と移動するかといった要素も含めて考える必要があります。

たまにはいつもと違う道で帰るか、とか、友達みんなでレンタカー借りてワイワイ旅行に行きたいな、とか。
掘り下げて考えればキリがありません。


普段何も考えずにしている「移動」も、詳しく考えると結構深いものですね。
名古屋で書き始めたこの記事ですが、書き終わる頃には中津川に着いてしまいました。
あとは車窓の景色を楽しみたいと思います。
それではまた。

神の不在

夜中にバイト帰りの勢いでブログを更新する。

今日のバイトは、腹の立つ客が多かった。
いや、正確には私が疲れていたからそう感じただけかもしれないが、事実、腹の立つ客が目立った。

腹の立つ客とはどういう客か。
店員を見下す、店員の話を聞かず自分勝手に動く、等々である。
例を挙げると、トレーの前でお待ちください、と声をかけたにも関わらず勝手に着席してしまうとか、上から目線な口調で注文してくるだとか、そういったことの積み重ねがストレスになるのだ。

余談だが今日いちばん腹が立った客は、「ポテトはお席までお持ちします」と言って他の商品を先に渡したのに、しばらくしてから「ポテトがない」と文句をつけてきた客である。人の話を聞け。

さて、このような「腹の立つ客」はなぜ発生してしまうのか。
答えは簡単、これらの客は自分が店員よりも上の立場にいると錯覚しているのだ。

確かに、「お客様は神様だ」という言葉は接客業界に存在する。
しかしこの言葉は店員側の心構えの問題であり、客側からの目線で言っている訳ではない。
そもそもこの言葉の本来の意味では、お客様というのは消費者のことではなく観客(オーディエンス)のことで、つまりは舞台に立つときの心構えについて述べたものである。

それが今ではどうだろうか。
一部の客はこの言葉を拡大解釈し、さも自分が店員と比べて偉いかのように思い込んでしまっている。

彼らの言い分はこうだ。
俺たちは店に金を払っているんだ、だから店員よりも偉いに決まっているだろう。
確かに、金を払ってくれるのは偉いかもしれない。ただし、それは何の見返りもなしに金を払っている場合の話だ。

客というのは、店に金を払っているが、それは店が提供する商品との等価交換である。
つまり、客は店に払った金と同じだけの価値を持つ商品を手に入れるのだ。
同じ価値のものを返された時点で、立場は同等になるはずだ。
これを理解していない客が、「腹の立つ客」に成り下がってしまうのである。

店というのは確かに客がいなければ成立しない。しかし、客もまた、店がなければ欲しいものが手に入れられない。
偉そうにしているおまえだって、ハンバーガーが食いたくて店に来たんだろう。店がなければおまえが食べたがってるハンバーガーは手に入らないんだぞ。
そう考えると、客にとっての店もまた、商品を提供してくれる「神様」のような存在なのではないだろうか。
そして、存続の必要条件として、店からみた客も「神様」のような存在であると言える。

しかしここで注意しなければならないのは、お互いに「神様」のような存在と言っている「店」や「客」は、個人の話ではなく、集合体のことを指している、ということだ。
つまり、ひとりの客が偉いわけでも、店員ひとりが上の立場にあるわけでもない。
客や店員を集めて、集合体としての「店」や「客」としてみた時に、やっとお互いに「神様」の位置につくのだ。

「腹の立つ客」は個人レベルで自分が「神様」だと思ってしまっている。
しかし実際は、ひとりの客とひとりの店員が対峙したとき、そこには神様なんていないのだ。「神様」はもっとスケールの大きいところにいる。

私は、すべての客に伝えたい。
お互い人間として最低限の敬意を払おうではないか。
どうか、くだらない勘違いだけはやめてほしいものである。