多重生活

こんばんは。お久しぶりです。
そろそろ春休みも終わり、新学期が始まろうとしています。

前にも書きましたが、私はこの春休みの間、旅行とバイトの繰り返しで過ごしてきました。
しかし、もうすぐ新学期ともなるといつまでもそんな悠長な生活を送るわけにもいきません。
授業に向けて履修を組まなければなりませんし、サークルの新歓もあります。

このサークルの新歓がちょっとしたくせ者なのです。
現在私は3つのサークルに所属しています。そのうち1つは新歓イベントのようなことをする予定はないので、重要なのは2つになります。
この2つがどちらも舞台発表系のサークルなので、そのための練習がぼちぼち始まってきています。

さて、これで授業が始まるとどうなるでしょうか。
「授業」、「サークル1」、「サークル2」、そして「バイト」という4つの生活が私の周りを平行して流れ始めるのです。
言ってみれば私はその時と場合に応じてこの中のどれかを生きる、ということになります。

ここまで読んで、はいはい、忙しいアピールがしたいのね、と思ったそこの貴方。
この話はあくまで導入です。本題はここから。
これは私に限った話ではありません。そこの貴方も含め、ほとんどの人間は平行して流れる生活を生きわけています。

たとえば、高校生。授業中と休み時間、部活、そして帰宅後。これらはすべて平行した別の生活であると考えることができます。
なぜか。その「生活」の中での貴方の立ち位置が異なるからです。
授業中なら「生徒」、休み時間は「友人」、部活中は「部員」、帰宅後は「家族」という立ち位置が基本となります。

ここで言う立ち位置、というのは他者との相対的な関係性のことです。
これらの関係性は、ある文脈の中でのみ発揮されるものですが、その文脈というのは相互に交わり合うことはありません。
人間は皆、この平行した文脈を無意識のうちに選択し、行ったり来たりしながら生きているわけですね。
文脈にあった生活を「演じている」と表現してもいいでしょう。

この生活、というのは他者との関係性の数だけ存在します。
同じ「友人」として接しているけれども、あそこの彼に対する時とそっちの彼女に接するときとでは気持ちや態度がちょっと違う、ということがあるでしょう。
それは、「彼の友人」としての貴方と「彼女の友人」としての貴方、2つの文脈が存在していることが原因だと考えられます。

ちょっと待て、関係性の数だけ生活を演じているのなら、本当の自分というのはどこにいるんだ、という声がそろそろ上がってくるかもしれません。
その答えは、「すべての生活の根幹」です。
先ほど、我々は生活を演じているようなものだ、といいました。演じるためには、役者という存在が必要不可欠です。
その役者こそが、いわゆる「本当の自分」なるものではないかと私は考えます。

忙しい人間の中には、ある生活の気分転換に別の生活を利用する人もいます。たとえば、勉強とサークルとか。
確かに、全く違う生活を演じれば精神的には回復します。なぜなら、それらの生活は平行していて交わることはないから。
しかし、肉体的にはどうでしょうか。役者ひとりで常に演じわけるのは疲労がたまる一方です。
これが蓄積していって、あるとき急に崩壊してしまうようなこともあり得るのです。

では、どうすれば良いのか。役者を素の状態で休ませることです。
役者が素に戻るのはどのような時でしょうか。
簡単ですね。役から解放されて舞台を降りた時です。
この場合、舞台というのは他者との関係性にあたります。
つまり、たまにはひとりで休むことが重要だ、ということですね。

これからは「新生活」の季節。いろいろと疲れることもあると思いますが、うまく演じていきましょう。
皆さんもお気をつけて。
それではまた。

ヴァイトの後のひとり言

こんばんは。

そういえば今月はほとんどブログを更新していなかったな、そろそろ何か書くかと思い立ったのが四日ほど前。
しかし、春休みに入ってからというもの暇さえあればアルバイトという模範的な大学生活を送っているため、特筆すべきこともない。
ならばいっそのこと「大学生にとっての労働とは何か」みたいな記事を書いてやろうと思い、ヴァイト中にいろいろ考えていましたが四日経ってもあまり考えがまとまりません。何かしらの結論が出たら書きたいテーマではありますが…

余談ですが「バイト」って、ちゃんと発音すると「ヴァイト」になるみたいですよ。嘘です。語源はドイツ語のArbeitだそうで、正しい発音は「バ」です。


そんなくだらないことを考えながら働いていたとき、これまで全く気にもかけなかったことに対して、急に違和感を覚えました。
知ってる方は知ってると思いますが、私はファストフード店で働いています。
皆さんもファストフード店に行かれることがあると思うので思い出していただきたいのですが、お客が店に入り、オーダーをしようとカウンターの前に立ったとき、店員から真っ先に言われる言葉はなんでしょうか。


ご名答。「いらっしゃいませ」ですね。
いらっしゃいませ。バイト先に採用が決まってから幾度となく発してきた台詞ですが、よくよく考えると違和感の強い言葉です。

さて、高校生気分に戻って、この「いらっしゃいませ」という言葉を品詞分解してみましょう。
皆さんもやってみてください。









できましたか?
正解は、尊敬の動詞「いらっしゃる」の連用形イ音便+丁寧の助動詞「ます」の命令形です。簡単ですね。
「いらっしゃる」と言うのは「来る、居る」という意味の尊敬語です。それに丁寧の助動詞の命令形がくっついているわけですから、意味としては「来い」というのを最大限に丁寧な表現にしたものであると言うことがわかります。

ここまで来れば、賢い読者の皆さんなら私が感じた違和感の正体がわかってきたと思います。
そうです。たとえば呼び込みなどで、道行く人に自分の店に来てもらおうとする時には「いらっしゃいませ」は非常に適切な言葉です。
しかし、ファストフード店で、既に店にやって来て何かを頼もうかという客に向かって「来てください」というのはおかしな話です。違和感しかない。「ようこそいらっしゃいました」あたりが適当でしょう。


ですが私は、明日からも「いらっしゃいませ」と言い続けるでしょう。
なぜか。この来店時の「いらっしゃいませ」はもう慣用表現として浸透してしまっているからです。
言葉の意味をたどればおかしいからといって、「ようこそいらっしゃいました」なんて旅館の女将みたいな接客をすれば客から不審がられるに決まってます。

言葉は生き物です。常に使用状況に応じて用法も変化し続けています。
そのような中で文字通りの原義なんて意味を持たない言葉も出てきます。
今回の「いらっしゃいませ」はその好例です。大多数に認められている用法が正しいのです。

もしかしたら、慣用表現として、誰も原義を気にしていないのかもしれません。
「レシートのお返しです」が日本語的におかしいと教えてきたバイト先の接客教育でさえ、「いらっしゃいませ」に関してはむしろ推奨しているのです。

正しい日本語とは何なのか。文字通りの意味は役に立たないのか。


ちょっと面白くなってきましたが、明日もヴァイトがあるので今日はこの辺で。
最後まで読んでいただきありがとうございました、またお越しくださいませ。

グラミーと差別

先週の月曜日に、第60回グラミー賞が発表されました。
グラミー賞というのは業界でもっとも権威のある音楽賞です。ジャンルごとに細かく部門分けがなされていて、現在では全部で78ものカテゴリーが設置されています。
その中でも最優秀アルバム賞、最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀新人賞の四つは主要四部門と呼ばれ、毎年グラミー賞の目玉になっています。
ちなみに、今年のグラミーでは、主要部門のうち新人賞以外の3つをブルーノ・マーズが、新人賞をアレッシア・カーラが受賞しました。
(最優秀楽曲賞受賞、That's What I Like/Bruno Mars)



☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

しかしこのグラミー賞には差別が存在しています。人種差別です。

今年のグラミー賞において、ブルーノやアレッシアよりも受賞に相応しいアーティストがいました。
2017年の全米アルバム年間チャートで堂々の一位を獲得した、ラッパーのケンドリック・ラマーです。
彼はラッパーでありながらラップの域を超えた表現者として素晴らしく芸術的なアルバムを作り出しました。
トランプが大統領となったアメリカの崩壊を憂う作品であり、間違いなく今年の最高傑作です。

また、最優秀新人賞においても、受賞すべきだったのはアレッシア・カーラではありません。
SZAという素晴らしい新人の女性シンガーがいました。
彼女はブラックミュージックの最先端とも言えるインディーR&Bというジャンルの人です。
彼女こそが今年の新人賞にもっとも相応しかった。
(参考音源、All The Stars/Kendrick Lamar & SZA)

しかしながら、上記の通りケンドリックもSZAも受賞することができませんでした。
なぜか。その答えが、人種差別です。つまり、二人が黒人だから、賞をもらえなかったのです。
黒人に賞を与えたくなかったから、獲るべき人ではなく、代わりにアジア系のブルーノと白人のアレッシアに受賞させたのです。

これは今年に限った話ではありません。ここ数年のアルバム賞の受賞作を見れば一目瞭然です。
3年前は黒人のビヨンセを打ち負かせて、白人のベックが受賞しました。
2年前には同じくケンドリック・ラマーがテイラー・スウィフトに敗れ、昨年はビヨンセではなく白人のアデルが受賞していました。
明らかに芸術性の高い傑作である黒人の作品を受賞させないなんて、人種差別がはたらいているに違いありません。

また、今年はレコード賞と楽曲賞の両方に"Despacito"というラテン系の大ヒット曲がノミネートされていました。
しかし、どちらも受賞せず。これもラテン系民族に対する差別です。

今年のグラミー賞授賞式は、トランプ政権下における多様性の尊重を1つの軸としたような演出内容でした。
それならば受賞者にも多様性を持たせるべきなのに、主要部門はブルーノ・マーズが独占。完全なる自己矛盾です。
ちなみに、授賞式の演出のもう一つの軸は女性の権利主張でした。それにもかかわらず、女性のノミネートは全体の1割程度。これは女性差別です。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆







以上が、今年のグラミーに対する海外メディア他の主張です。
もうね、アホかと。馬鹿かと。某洋楽雑誌の現地特派員も、ツイッターでずっと黒人差別だの女性差別だの不公平だのと言ってるの。もう見てらんない。

さて、ここからが本題です。この主張の何がおかしいのか。

詳しい説明は省きますが、今年の主要部門には、白人がほとんどノミネートされませんでした。そして、主要部門全ノミネートのうち約半数が黒人でした。
あの特大ヒットを飛ばしたエド・シーランが除外されたことを考えれば、いかに黒人が優遇されていたかわかります。
おそらくこれは、昨年までの流れで黒人差別が騒がれたことに対する反動だと思われますが、この時点で少なくとも今年は差別の意図がなかったことがわかります。

それなのに、なぜか海外メディアは人種差別の存在をかたくなに主張しています。
本当に人種差別だと思っているのかと問いたい。問い詰めたい。小一時間問い詰めたい
自分たちが良いと思った作品が受賞できなかったから屁理屈こねてるだけちゃうんかと。

彼ら海外メディアの多くは、グラミー受賞予想の段階で、ケンドリックとSZA、 そして"Despacito"を「受賞すべき作品」として挙げていました。
この「受賞すべき」というのが気に入らない。本来であれば、その部門にノミネートされた5作品が平等に受賞する権利を持っているはずです。
それを、特定の作品を取り上げて、自分が審査するわけでもないのに「これが受賞すべきだ」などと発言し、挙げ句の果てにそれが受賞を逃したらありもしない差別をでっち上げる。本当に見ていて気分が悪いです。
いわゆる厄介オタクと本質は変わりません。ただ、影響力が大きい分たちが悪い。

ではなぜ、彼らはこれらの作品を受賞すべきだとしているのでしょうか。
答えは簡単ですね。彼らがその作品を好きだから。
時代を反映した作品、とかなんとかもっともらしい理由を並べ立てていますが、自分たちが良いと信じている作品に獲ってほしいわけです。
また、彼らがもっとも良いと思っている最新鋭のブラックミュージックが受賞を逃し続けているので今年こそ、というのも1つの理由です。

音楽には、絶対的な良し悪しの基準なんて存在しません。あるとすれば演奏技術の巧拙などですが、これも感情の込め方などによって変わるので絶対的とは言えません。
音楽の良し悪しを決める基準、それは個人の嗜好です。ジャズこそが高尚な音楽でありその他は駄目なものだとする者から、西野カナSHISHAMOの共感できる歌詞が良いもので歌詞の意味がわからない洋楽なんてもってのほかだという者まで様々です。
そんな中で、自分の基準だけで「受賞すべき」と断言してしまう海外メディアはいかに自分勝手なことか。

グラミー賞は、この良し悪しの基準を委員会による多数決で決めています。
つまり、いちばん票の集まった作品が受賞するわけです。
今年の受賞結果からわかることは、ブルーノ・マーズのアルバムはケンドリック・ラマーのアルバムよりも良かったという人が多かったことです。ただそれだけ。他の年についてもそうです。
メディアの言うところの「受賞すべき作品」は一部のマニアの間では神格化されていますが、必ずしも一般受けするものではないのです。
すべての音楽好きが最新鋭の音楽、政治を反映した音楽を良しとするのではないわけです。

また、あれだけ黒人がノミネートされていたのに主要部門をとれなかったのはおかしいとする主張もありますが、これこそ本当に馬鹿です。
いくら黒人が大量にノミネートされていようと、それを超える作品が1つでもあればその作品が受賞するのは当たり前です。

演出内容と受賞者の矛盾の話もそうです。
グラミー賞自体は単純に良い音楽を表彰するものであり、政治的な演出とは無関係です。
一部の音楽メディアは政治と音楽を必要以上に結びつけようとしていて、音楽が本来持っているはずのエンターテイメント性を見失っています。
そういった中で、純粋にエンターテイメントを追求したブルーノの受賞は大きな意味があるようにも思えます。

海外の音楽メディアは、自分の好みが受賞しなかったと言う理由で差別を主張し、グラミー賞に対して圧力をかけてきました。
その結果が、今年の黒人大量ノミネート。もはやこれは白人冷遇の逆差別です。
けれどもメディアはそれだけでは満足せず、ケンドリックが獲るべきだとさらに圧力をかけました。
しかし、グラミーは圧力に負けず、ブルーノに賞を贈りました。
その結果、メディアは再び差別を主張し始め、世論も黒人が受賞すべきと言う方向に流されつつあります。

だけど私は、そのような流れに反対したい。
差別だ何だと騒ぐのは勝手です。しかし、賞の行方がその主張に流され、黒人だから、女性だからという理由で評価がかさ上げされるようなことがあってはなりません。それこそ本当に不公平です。
今回、圧力に負けなかったグラミーを高く評価したい。
これからも差別を主張するような風潮が続くでしょうが、純粋な評価に基づいて受賞者を決めてほしい。
それこそが音楽賞の本来あるべき姿ではないでしょうか。

これはグラミー賞や人種差別に限った話ではありません。
たとえばフェミニストなんかの主張も、このような詭弁であることがほとんどです。
差別論を唱えている人、そしてそれらを無条件に信じている人はもう一度しっかり考え直してほしい。

Highschool Dogs

こんばんは。

私の大学では来週からテストです。みんなぼちぼち勉強を始める頃です。
そんな中、ふと高校時代のことを思い出したので書いておきます。

前に手段の目的化の話を書きました。(https://blogs.yahoo.co.jp/zweep40063/37039294.html参照)
今回はその続きです。

私が高校生だった頃、いわゆる自称進学校と呼ばれる類いの学校に通っていました。
平気で「二年生の三学期は三年のゼロ学期だ」なんて言っちゃうようなところでした。
三年のゼロ学期だと言われたところで何かが変わる訳ないだろアホか。

そんな学校だったので、特に最後の一年間は勉強漬けの生活を半ば強制されていました。
朝早くに招集されて自習、放課後になれば皆が競うように夜遅くまで教室に残って自習。
挙げ句の果てには休み時間にも勉強の妨げになるからと大声で騒ぐのを禁止されるというブラック企業ぶり。休み時間くらい休ませろ。
私はこの体制が気に入らなかったので定時登校定時下校を徹底していましたが、ひどい生徒だと朝八時から夜は九時近くまで、一日の半分以上を学校で過ごすという脅威の社畜精神を見せるという有様でした。

このような状況で、もっとも重要視されていたのは、「時間」でした。
競うように遅くまで残業していたことからわかるように、一部の生徒の中では勉強した時間というのが大きな価値基準になっていたのです。
つまり、「俺はこれだけ勉強しているから偉いのだ」というおかしな考え方をしてしまうのです。

しかし、果たして単に勉強量が多いことは偉いことなのでしょうか。そんなことはないですよね。
これらの生徒は、実際は知識や能力を養うための「手段」である勉強を、「目的」にすり替えてしまっています。
その結果、勉強自体にとらわれてしまうのですね。

さて、長時間同じような作業をし続けると、どのようなことが起こるでしょうか。
単純に考えると、疲労がたまりやすくなり、パフォーマンスが著しく低下します。
勉強にとらわれた生徒は、長時間の勉強がまるで優れたことのように思っていますが、実際にはその勉強自体が自らの実力の足かせになっていたというわけです。

実際に、勉強量の自慢をしているやつに限って模試の成績がたいしたことなかったりしたものです。
彼らの言い分としては、「僕は模試と相性が悪いねん。定期テストやったらええ点がとれんねんけどなあ(笑)」とのことですが、定期テストなんて範囲が限られているんだからある程度勉強すれば点が取れるのは当たり前です。
模試で好成績がとれないのは相性のせいじゃない、おまえの実力がないからだ。
これが、いわゆるガリ勉の出来損ないというやつです。

逆に模試でトップの成績を取っていたのは文系クラス、理系クラスともに定時登校定時下校、休み時間には騒ぎ放題の人間だったりするので、勉強量の自慢なんてなんの役にも立たないのです。
なのになぜ、ガリ勉の出来損ないどもはやたらと勉強量を自慢し、中途半端な知識をひけらかそうとするのでしょうか。

おそらく、環境の影響です。
前の記事でも書きましたが、日本には勤勉を美徳とする風潮があります。
もちろん教育現場でもこの二宮金次郎的価値観が重んじられています。
実力がなくても真面目で勤勉であれば点数が加算される、内申点などは良い例です。
そして、高校入試ではこの内申点が重視されます。つまり実力だけではなく勤勉さも評価の対象となるわけですね。
ガリ勉の出来損ないはここで無意識のうちに勉強量自体もひとつの指標になり得ると勘違いしてしまうのです。

少し話は逸れますが、この内申点で評価される「勤勉さ」とは一体何でしょうか。何を以てしてその生徒が真面目か不真面目かを判断するのか。
判断するのは学校側です。したがって、学校側で見えるものが基準になります。つまり、課題や授業態度。
いくら実力があろうと授業中に居眠りしていたり、宿題を出さなかったりしたら大幅減点。私もこのせいでテストでは90点代なのに評定は10段階の4、ということがありました。
逆に、大した実力がなくてもつまらない授業を聞き、時間だけかかって何の役にも立たない宿題を出すだけで高評価。これが気に食わん。

そもそも、授業や宿題というのは何のためにあるのでしょうか。
勉強を助け、知識や実力の定着の一助になる、というのが本来の目的のはずです。言い換えれば、実力という「目標」のための「手段」。
これを評価し、実力よりも重点を置くというのは手段の目的化を通り越してもはや本末転倒です。
評定という餌で生徒の承認欲求を満たし、学校側に都合のよい犬を量産しようとしているようにも思えてきます。

そして、その犬たちが誤った価値観を植え付けられたまま成長すると、やっかいなガリ勉の出来損ないが完成するというわけです。
学校の犬であるがゆえ教師に言われるまま不必要な課題をこなし、意味不明なほど学校に残って自習をし、そして誇らしげにその勉強量を自慢するのです。

しかし、何度も言っているように、教師の言うことにすべて従っているようでは実力がつきません。
なぜか。教師と生徒では目的が違うからです。
学校側としては、何でも良いから生徒を偏差値の高い大学に送り込んで実績を上げたい。「受験は団体戦」という意味不明な言葉は、この実績欲からきています。数多くの生徒を束にして受験と戦わせようとする訳ですね。
一方、生徒側の目標は自身の実力の定着。受験だってもちろん個人戦です。

このように実績欲で動く教師の言葉をすべて鵜呑みにして良いはずがありません。彼らは数打ちゃ当たるだろうと、生徒をひとまとめにして勉強を押しつけようとします。
けれど、生徒はひとりひとり得意不得意が違います。自分に合った勉強法も十人十色です。教師の示すやり方がすべての生徒に向いているわけがないのです。
学校の犬に成り下がってしまうと、この当たり前な事が見えなくなってしまいます。
教師の話はすべて鵜呑みにするのではなく、その中で自分に合ったものを取捨選択することが必要です。
要らないと思ったら無視してもいい。

高校時代に気に入らなかったガリ勉の出来損ないたちがことごとく受験に失敗し、実力もあまりなかったことがすべてを物語っています。
学校の犬、勉強の犬に成り下がらず、自らの意志をもって臨むことが重要です。
人に言われてではなく自発的に行う学習の方が効果的なのです。





え?テスト前なんだからブログなんて書いてないで勉強しろって?
やる気の出ないときは思い切って休む、これが私のやり方です。
皆さんもこの機会に今一度自分に合ったやり方を考えてみてはどうでしょうか。

それではまた。

実録ぼくらの成人式2018

2018年1月8日。私は成人式という行事に参加した。
以下はその記録である。

成人式。人に成る式。
なんだかこれまでは人じゃなかったみたいで気に入らない言葉である。
ティーンエイジャーだって十分に人ではないか。むしろ人生の大部分を決定する重要な時期だろう。
大きな意味を持つ「10代」を捨てて人は「人に成る」のだそうだ。

さて、毎年全国各地で自治体が気合いを入れて開催しているこの行事、どのような意義があるのだろうか。
調べたところによると、本来の趣旨は新成人が大人になったことを自覚するための行事で、それに対して激励や祝福がなされるというものらしい。
なるほど、確かに自覚を持たせ、激励をするのに式というのは重要な行事かもしれない。

しかし、今は2018年である。
選挙権の獲得はすでに18歳に引き下げられている。
今時の大学生はアルバイトを通して、積極的に社会と関わっている人も多い。
そのような中で、改まって20歳の人間に自覚を持たせるというのも少しおかしな話である。
そんなことをしなくても、すでに自覚は持っているはずなのだ。
そもそも、今時の若者は成人を見ず知らずの他人に祝われたいとも思わないだろう。

だとすれば何か。私の友人は「もう子供じゃないと烙印を押される」と表現した。
まさにその通りではないだろうか。
大人としての自覚を持たせるのではなく、烙印を押すかの如くティーンエイジャーでなくなった新成人に追い打ちをかけるのだ。

そこで私は、この式を「ティーンエイジャーだった自分への葬式」として位置づけることにした。
そして、それに相応しい黒いネクタイで成人式に臨んだ。

会場に着くと、市内に住む数多くの新成人がごった返していた。
皆振り袖やスーツで晴れの日を飾ろうとしているかのように見える。
しかし、一体どれだけの人が自らの意志を以てやって来たのだろうか。
会場の雰囲気を見る限り、割と多くの人間が意義を考えず、人に流されるように集まっていた。
つまり、懐かしい友達が集まるから来よう、親が行けというから行こう、振り袖で着飾れるから行こう、人生に一度しかないからとりあえず行こう、という感じである。
まあ、かくいう私も葬式としての位置づけを確立させるまではそんな感じだったし、仕方ないだろう。

問題は主催者側である。
主催者側としては、「新成人を激励・祝福する」という役割があるはずだ。
しかし実際は、式の三分の一の時間を使ってよくわからない車いすダンスのショーを見せる、市長や市議長の祝福の言葉は聞き取りづらい(おそらく音響設備の問題)など、全くもってその意義を果たせていなかった。

その結果、式の途中にもかかわらず新成人たちが席を立って旧友との再会を喜び合うというなんとも言えない構図ができあがっていた。
これではただの晴れ着お披露目会&大規模な同窓会である。
わざわざ税金をつぎ込んで市内の新成人を全部集める必要性が微塵も感じられない。学校単位で勝手に集まっていればよい話である。

以上が成人式に参加した私の所感である。
式は意義を失い宙ぶらりんな状態、葬式としての位置づけもばかばかしくなるくらいの薄っぺらさだった。
来年以降は改善されることを願う。

しかし、懐かしい面々と久しぶりに会うことはできたし、家を出る前に親と話して得たものもあったので行ってよかったとは思っている。
ティーンエイジャーの自分とは、式が終わってから友人とラーメンを食べつつ決別した。
私には大規模なだけの式よりもラーメン屋の方が「人に成る」場としては相応しかったのかもしれない。
そういうものである。

迎春(もしくは春に迎えられて)

新年明けましておめでとうございます。
無事健康に新しい年を迎えることができて何よりです。

なんて言い方をよくしますが、我々はどのようにして「新年」というものを「迎える」のでしょうか。
迎える、ということは「新年」はどこからかやってくる、ということになりますよね。
行く年来る年、なんて言い方もあるのでやはり古い年はどこかへ去って行き、新しい年が我々のもとに訪れると考えてよいでしょう。

ちょっと視点を変えて考えてみましょう。
時間には流れというものがありますよね。流れというからには方向性があります。
その方向性は、言うまでもなく過去から未来への一方通行です。
SFなどで時の流れに逆らって、という言い方をする時、過去に向かうことを指すことからもこの方向性は明らかです。

さて、賢い読者の皆さんならお気づきでしょうが、ここにひとつの矛盾が生じます。
行く年来る年の考え方に従えば、我々のもとからは古い年が去り、代わりに新しい年がきます。
また、流れに乗っているものは、必ず上流からきて下流へと去ってゆきます。
つまり、新しい年が上流からやってきて、それに押し出される形で古い年が流れの先、下流方向へと去って行くと考えることができるのです。さっきの時間の流れの考え方と矛盾するのがご理解いただけたでしょうか。

しかし、感覚的には行く年来る年も時間の流れもどちらも正しいように思えます。
なぜ矛盾が生じてしまうのでしょうか。

少し話は逸れますが、皆さんも天動説・地動説というものをご存じだと思います。
読んで字の如く、夜空の星や太陽が動くのは天空そのものが地球の周りを回っているからだという説と、地球が回っているため相対的に天体が動いて見えるという説のことですね。
今となっては科学も発展して地動説が正しいことは周知の事実となりましたが、提唱され始めた頃の地動説は完全に異端扱いでした。なぜでしょうか。
当時は宗教との問題もあったようですが、それ以上に人間の心理に関わる話だと考えられます。
つまり、人間は無意識のうちに自身が世界の基準であると思いたがる傾向があるのです。特に、感覚的に大きな動きに関しては。

何が言いたいのかというと、時間に関しても同じことが言えるのではないか、ということです。
上で挙げた行く年来る年や時間の流れの考え方は、天動説的な時間の見方です。止まっている我々のもとで時間が動いているという考え方ですね。しかし、この考え方では矛盾が生じてしまう。

そこで、地動説的な時間論というものを考える必要性が出てきます。地動説的な時間論とは一体どのようなものでしょうか。
平たく言うと、我々が時間という概念の中を動いている、ということです。
時間という一種の直線的な概念の中を、我々は一方通行に動いているわけです。動いた足跡が過去と呼ばれるものになります。進む先が未来です。
そして、このとき我々が動いているこの方向性が、いわゆる時間の流れと一致します。
実際には我々が流れているわけですが、相対的に我々が体感する時間も進むように感じられるのです。

また、この考え方に則って考えると、我々は古い年から新しい年に向かって進んでいるわけですから、相対的に我々のもとから古い年が去り、新しい年がやってくるように感じます。これが行く年来る年的考え方の原因です。
このように、視点を変えて地動説的時間論を考えると、時間の流れに関する矛盾が解消されます。

この地動説的時間論、頭の片隅にでも置いておいてください。この考え方を持っていれば、時間に対してもっと能動的になることができるはずです。時間に追われることも、時間に必死にしがみつこうとすることも無意味に思えます。なぜなら、時間ははるか昔から問い未来まで我々を包み込んでいて、我々自身が自らその中を動いているのだから。

新年の挨拶のつもりが、だいぶ話が飛躍してしまいました。
改めて、明けましておめでとうございます。来年も笑顔で迎えられるように、いや、笑顔で来年に足を踏み入れられるように、頑張りたいです。皆様もお元気で。
それではまた。

語源の旅

こんにちは。最近はブログの更新を怠っていましたが、今とてつもなく暇なので久々に書きます。

さて、今回のテーマは語源です。
前に書いた「馬鹿は風邪をひかない」もそうですが、日本語には矛盾をはらんだ表現や言葉がいくつかあります。
そのような言葉がなぜできたのか、その語源を探ってみよう、というのが今回の趣旨です。

パソコンのバッテリーが切れそうなので手短に。
まずは「踏んだり蹴ったり」です。
ご存じの通り、トラブルが度重なってひどい目に遭う、という意味の言葉ですね。
しかし、ちょっと考えてみてください。「踏む」も「蹴る」もどちらも加害者側の行為です。
被害を表すなら「踏まれたり蹴られたり」の方がふさわしい。

調べてみました。
語源としては、殿様の大事にしていたものを踏んだり蹴ったりしてしまったことが原因で切腹を命じられたという説や、汚物などを踏んだり蹴ったりしてしまうとイヤだからという説があるみたいです。
これらはネットの情報なので信憑性がどこまであるかはわかりませんが…。

言語学的には、もとは加害者側に使われる言葉だったものの用法が変化したという説が有力みたいです。

続いては「お開き」です。
宴会などが終わるときに用いられる言葉です。
終わり、つまり閉会なのに「お開き」とはどういうことなのでしょうか。

調べてみると、祝宴の場では「終わる」や「閉める」というのは忌み言葉なのだそうで、代わりに逆の意味の言葉を代用したものらしいです。
するめのことをあたりめと言ったり、アシのことをヨシと言ったりするのと同じですね。
また、本来の語源は戦国時代の武将の退陣にあるという説もあります。

一見自己矛盾するような言葉でも、語源を知れば納得がいきますね。
他にもいくつかネタはありますが、そろそろバッテリーが限界なので、この辺でお開きにします。
それではまた。