Highschool Dogs

こんばんは。

私の大学では来週からテストです。みんなぼちぼち勉強を始める頃です。
そんな中、ふと高校時代のことを思い出したので書いておきます。

前に手段の目的化の話を書きました。(https://blogs.yahoo.co.jp/zweep40063/37039294.html参照)
今回はその続きです。

私が高校生だった頃、いわゆる自称進学校と呼ばれる類いの学校に通っていました。
平気で「二年生の三学期は三年のゼロ学期だ」なんて言っちゃうようなところでした。
三年のゼロ学期だと言われたところで何かが変わる訳ないだろアホか。

そんな学校だったので、特に最後の一年間は勉強漬けの生活を半ば強制されていました。
朝早くに招集されて自習、放課後になれば皆が競うように夜遅くまで教室に残って自習。
挙げ句の果てには休み時間にも勉強の妨げになるからと大声で騒ぐのを禁止されるというブラック企業ぶり。休み時間くらい休ませろ。
私はこの体制が気に入らなかったので定時登校定時下校を徹底していましたが、ひどい生徒だと朝八時から夜は九時近くまで、一日の半分以上を学校で過ごすという脅威の社畜精神を見せるという有様でした。

このような状況で、もっとも重要視されていたのは、「時間」でした。
競うように遅くまで残業していたことからわかるように、一部の生徒の中では勉強した時間というのが大きな価値基準になっていたのです。
つまり、「俺はこれだけ勉強しているから偉いのだ」というおかしな考え方をしてしまうのです。

しかし、果たして単に勉強量が多いことは偉いことなのでしょうか。そんなことはないですよね。
これらの生徒は、実際は知識や能力を養うための「手段」である勉強を、「目的」にすり替えてしまっています。
その結果、勉強自体にとらわれてしまうのですね。

さて、長時間同じような作業をし続けると、どのようなことが起こるでしょうか。
単純に考えると、疲労がたまりやすくなり、パフォーマンスが著しく低下します。
勉強にとらわれた生徒は、長時間の勉強がまるで優れたことのように思っていますが、実際にはその勉強自体が自らの実力の足かせになっていたというわけです。

実際に、勉強量の自慢をしているやつに限って模試の成績がたいしたことなかったりしたものです。
彼らの言い分としては、「僕は模試と相性が悪いねん。定期テストやったらええ点がとれんねんけどなあ(笑)」とのことですが、定期テストなんて範囲が限られているんだからある程度勉強すれば点が取れるのは当たり前です。
模試で好成績がとれないのは相性のせいじゃない、おまえの実力がないからだ。
これが、いわゆるガリ勉の出来損ないというやつです。

逆に模試でトップの成績を取っていたのは文系クラス、理系クラスともに定時登校定時下校、休み時間には騒ぎ放題の人間だったりするので、勉強量の自慢なんてなんの役にも立たないのです。
なのになぜ、ガリ勉の出来損ないどもはやたらと勉強量を自慢し、中途半端な知識をひけらかそうとするのでしょうか。

おそらく、環境の影響です。
前の記事でも書きましたが、日本には勤勉を美徳とする風潮があります。
もちろん教育現場でもこの二宮金次郎的価値観が重んじられています。
実力がなくても真面目で勤勉であれば点数が加算される、内申点などは良い例です。
そして、高校入試ではこの内申点が重視されます。つまり実力だけではなく勤勉さも評価の対象となるわけですね。
ガリ勉の出来損ないはここで無意識のうちに勉強量自体もひとつの指標になり得ると勘違いしてしまうのです。

少し話は逸れますが、この内申点で評価される「勤勉さ」とは一体何でしょうか。何を以てしてその生徒が真面目か不真面目かを判断するのか。
判断するのは学校側です。したがって、学校側で見えるものが基準になります。つまり、課題や授業態度。
いくら実力があろうと授業中に居眠りしていたり、宿題を出さなかったりしたら大幅減点。私もこのせいでテストでは90点代なのに評定は10段階の4、ということがありました。
逆に、大した実力がなくてもつまらない授業を聞き、時間だけかかって何の役にも立たない宿題を出すだけで高評価。これが気に食わん。

そもそも、授業や宿題というのは何のためにあるのでしょうか。
勉強を助け、知識や実力の定着の一助になる、というのが本来の目的のはずです。言い換えれば、実力という「目標」のための「手段」。
これを評価し、実力よりも重点を置くというのは手段の目的化を通り越してもはや本末転倒です。
評定という餌で生徒の承認欲求を満たし、学校側に都合のよい犬を量産しようとしているようにも思えてきます。

そして、その犬たちが誤った価値観を植え付けられたまま成長すると、やっかいなガリ勉の出来損ないが完成するというわけです。
学校の犬であるがゆえ教師に言われるまま不必要な課題をこなし、意味不明なほど学校に残って自習をし、そして誇らしげにその勉強量を自慢するのです。

しかし、何度も言っているように、教師の言うことにすべて従っているようでは実力がつきません。
なぜか。教師と生徒では目的が違うからです。
学校側としては、何でも良いから生徒を偏差値の高い大学に送り込んで実績を上げたい。「受験は団体戦」という意味不明な言葉は、この実績欲からきています。数多くの生徒を束にして受験と戦わせようとする訳ですね。
一方、生徒側の目標は自身の実力の定着。受験だってもちろん個人戦です。

このように実績欲で動く教師の言葉をすべて鵜呑みにして良いはずがありません。彼らは数打ちゃ当たるだろうと、生徒をひとまとめにして勉強を押しつけようとします。
けれど、生徒はひとりひとり得意不得意が違います。自分に合った勉強法も十人十色です。教師の示すやり方がすべての生徒に向いているわけがないのです。
学校の犬に成り下がってしまうと、この当たり前な事が見えなくなってしまいます。
教師の話はすべて鵜呑みにするのではなく、その中で自分に合ったものを取捨選択することが必要です。
要らないと思ったら無視してもいい。

高校時代に気に入らなかったガリ勉の出来損ないたちがことごとく受験に失敗し、実力もあまりなかったことがすべてを物語っています。
学校の犬、勉強の犬に成り下がらず、自らの意志をもって臨むことが重要です。
人に言われてではなく自発的に行う学習の方が効果的なのです。





え?テスト前なんだからブログなんて書いてないで勉強しろって?
やる気の出ないときは思い切って休む、これが私のやり方です。
皆さんもこの機会に今一度自分に合ったやり方を考えてみてはどうでしょうか。

それではまた。