グラミーと差別

先週の月曜日に、第60回グラミー賞が発表されました。
グラミー賞というのは業界でもっとも権威のある音楽賞です。ジャンルごとに細かく部門分けがなされていて、現在では全部で78ものカテゴリーが設置されています。
その中でも最優秀アルバム賞、最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀新人賞の四つは主要四部門と呼ばれ、毎年グラミー賞の目玉になっています。
ちなみに、今年のグラミーでは、主要部門のうち新人賞以外の3つをブルーノ・マーズが、新人賞をアレッシア・カーラが受賞しました。
(最優秀楽曲賞受賞、That's What I Like/Bruno Mars)



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しかしこのグラミー賞には差別が存在しています。人種差別です。

今年のグラミー賞において、ブルーノやアレッシアよりも受賞に相応しいアーティストがいました。
2017年の全米アルバム年間チャートで堂々の一位を獲得した、ラッパーのケンドリック・ラマーです。
彼はラッパーでありながらラップの域を超えた表現者として素晴らしく芸術的なアルバムを作り出しました。
トランプが大統領となったアメリカの崩壊を憂う作品であり、間違いなく今年の最高傑作です。

また、最優秀新人賞においても、受賞すべきだったのはアレッシア・カーラではありません。
SZAという素晴らしい新人の女性シンガーがいました。
彼女はブラックミュージックの最先端とも言えるインディーR&Bというジャンルの人です。
彼女こそが今年の新人賞にもっとも相応しかった。
(参考音源、All The Stars/Kendrick Lamar & SZA)

しかしながら、上記の通りケンドリックもSZAも受賞することができませんでした。
なぜか。その答えが、人種差別です。つまり、二人が黒人だから、賞をもらえなかったのです。
黒人に賞を与えたくなかったから、獲るべき人ではなく、代わりにアジア系のブルーノと白人のアレッシアに受賞させたのです。

これは今年に限った話ではありません。ここ数年のアルバム賞の受賞作を見れば一目瞭然です。
3年前は黒人のビヨンセを打ち負かせて、白人のベックが受賞しました。
2年前には同じくケンドリック・ラマーがテイラー・スウィフトに敗れ、昨年はビヨンセではなく白人のアデルが受賞していました。
明らかに芸術性の高い傑作である黒人の作品を受賞させないなんて、人種差別がはたらいているに違いありません。

また、今年はレコード賞と楽曲賞の両方に"Despacito"というラテン系の大ヒット曲がノミネートされていました。
しかし、どちらも受賞せず。これもラテン系民族に対する差別です。

今年のグラミー賞授賞式は、トランプ政権下における多様性の尊重を1つの軸としたような演出内容でした。
それならば受賞者にも多様性を持たせるべきなのに、主要部門はブルーノ・マーズが独占。完全なる自己矛盾です。
ちなみに、授賞式の演出のもう一つの軸は女性の権利主張でした。それにもかかわらず、女性のノミネートは全体の1割程度。これは女性差別です。

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以上が、今年のグラミーに対する海外メディア他の主張です。
もうね、アホかと。馬鹿かと。某洋楽雑誌の現地特派員も、ツイッターでずっと黒人差別だの女性差別だの不公平だのと言ってるの。もう見てらんない。

さて、ここからが本題です。この主張の何がおかしいのか。

詳しい説明は省きますが、今年の主要部門には、白人がほとんどノミネートされませんでした。そして、主要部門全ノミネートのうち約半数が黒人でした。
あの特大ヒットを飛ばしたエド・シーランが除外されたことを考えれば、いかに黒人が優遇されていたかわかります。
おそらくこれは、昨年までの流れで黒人差別が騒がれたことに対する反動だと思われますが、この時点で少なくとも今年は差別の意図がなかったことがわかります。

それなのに、なぜか海外メディアは人種差別の存在をかたくなに主張しています。
本当に人種差別だと思っているのかと問いたい。問い詰めたい。小一時間問い詰めたい
自分たちが良いと思った作品が受賞できなかったから屁理屈こねてるだけちゃうんかと。

彼ら海外メディアの多くは、グラミー受賞予想の段階で、ケンドリックとSZA、 そして"Despacito"を「受賞すべき作品」として挙げていました。
この「受賞すべき」というのが気に入らない。本来であれば、その部門にノミネートされた5作品が平等に受賞する権利を持っているはずです。
それを、特定の作品を取り上げて、自分が審査するわけでもないのに「これが受賞すべきだ」などと発言し、挙げ句の果てにそれが受賞を逃したらありもしない差別をでっち上げる。本当に見ていて気分が悪いです。
いわゆる厄介オタクと本質は変わりません。ただ、影響力が大きい分たちが悪い。

ではなぜ、彼らはこれらの作品を受賞すべきだとしているのでしょうか。
答えは簡単ですね。彼らがその作品を好きだから。
時代を反映した作品、とかなんとかもっともらしい理由を並べ立てていますが、自分たちが良いと信じている作品に獲ってほしいわけです。
また、彼らがもっとも良いと思っている最新鋭のブラックミュージックが受賞を逃し続けているので今年こそ、というのも1つの理由です。

音楽には、絶対的な良し悪しの基準なんて存在しません。あるとすれば演奏技術の巧拙などですが、これも感情の込め方などによって変わるので絶対的とは言えません。
音楽の良し悪しを決める基準、それは個人の嗜好です。ジャズこそが高尚な音楽でありその他は駄目なものだとする者から、西野カナSHISHAMOの共感できる歌詞が良いもので歌詞の意味がわからない洋楽なんてもってのほかだという者まで様々です。
そんな中で、自分の基準だけで「受賞すべき」と断言してしまう海外メディアはいかに自分勝手なことか。

グラミー賞は、この良し悪しの基準を委員会による多数決で決めています。
つまり、いちばん票の集まった作品が受賞するわけです。
今年の受賞結果からわかることは、ブルーノ・マーズのアルバムはケンドリック・ラマーのアルバムよりも良かったという人が多かったことです。ただそれだけ。他の年についてもそうです。
メディアの言うところの「受賞すべき作品」は一部のマニアの間では神格化されていますが、必ずしも一般受けするものではないのです。
すべての音楽好きが最新鋭の音楽、政治を反映した音楽を良しとするのではないわけです。

また、あれだけ黒人がノミネートされていたのに主要部門をとれなかったのはおかしいとする主張もありますが、これこそ本当に馬鹿です。
いくら黒人が大量にノミネートされていようと、それを超える作品が1つでもあればその作品が受賞するのは当たり前です。

演出内容と受賞者の矛盾の話もそうです。
グラミー賞自体は単純に良い音楽を表彰するものであり、政治的な演出とは無関係です。
一部の音楽メディアは政治と音楽を必要以上に結びつけようとしていて、音楽が本来持っているはずのエンターテイメント性を見失っています。
そういった中で、純粋にエンターテイメントを追求したブルーノの受賞は大きな意味があるようにも思えます。

海外の音楽メディアは、自分の好みが受賞しなかったと言う理由で差別を主張し、グラミー賞に対して圧力をかけてきました。
その結果が、今年の黒人大量ノミネート。もはやこれは白人冷遇の逆差別です。
けれどもメディアはそれだけでは満足せず、ケンドリックが獲るべきだとさらに圧力をかけました。
しかし、グラミーは圧力に負けず、ブルーノに賞を贈りました。
その結果、メディアは再び差別を主張し始め、世論も黒人が受賞すべきと言う方向に流されつつあります。

だけど私は、そのような流れに反対したい。
差別だ何だと騒ぐのは勝手です。しかし、賞の行方がその主張に流され、黒人だから、女性だからという理由で評価がかさ上げされるようなことがあってはなりません。それこそ本当に不公平です。
今回、圧力に負けなかったグラミーを高く評価したい。
これからも差別を主張するような風潮が続くでしょうが、純粋な評価に基づいて受賞者を決めてほしい。
それこそが音楽賞の本来あるべき姿ではないでしょうか。

これはグラミー賞や人種差別に限った話ではありません。
たとえばフェミニストなんかの主張も、このような詭弁であることがほとんどです。
差別論を唱えている人、そしてそれらを無条件に信じている人はもう一度しっかり考え直してほしい。