実録ぼくらの成人式2018

2018年1月8日。私は成人式という行事に参加した。
以下はその記録である。

成人式。人に成る式。
なんだかこれまでは人じゃなかったみたいで気に入らない言葉である。
ティーンエイジャーだって十分に人ではないか。むしろ人生の大部分を決定する重要な時期だろう。
大きな意味を持つ「10代」を捨てて人は「人に成る」のだそうだ。

さて、毎年全国各地で自治体が気合いを入れて開催しているこの行事、どのような意義があるのだろうか。
調べたところによると、本来の趣旨は新成人が大人になったことを自覚するための行事で、それに対して激励や祝福がなされるというものらしい。
なるほど、確かに自覚を持たせ、激励をするのに式というのは重要な行事かもしれない。

しかし、今は2018年である。
選挙権の獲得はすでに18歳に引き下げられている。
今時の大学生はアルバイトを通して、積極的に社会と関わっている人も多い。
そのような中で、改まって20歳の人間に自覚を持たせるというのも少しおかしな話である。
そんなことをしなくても、すでに自覚は持っているはずなのだ。
そもそも、今時の若者は成人を見ず知らずの他人に祝われたいとも思わないだろう。

だとすれば何か。私の友人は「もう子供じゃないと烙印を押される」と表現した。
まさにその通りではないだろうか。
大人としての自覚を持たせるのではなく、烙印を押すかの如くティーンエイジャーでなくなった新成人に追い打ちをかけるのだ。

そこで私は、この式を「ティーンエイジャーだった自分への葬式」として位置づけることにした。
そして、それに相応しい黒いネクタイで成人式に臨んだ。

会場に着くと、市内に住む数多くの新成人がごった返していた。
皆振り袖やスーツで晴れの日を飾ろうとしているかのように見える。
しかし、一体どれだけの人が自らの意志を以てやって来たのだろうか。
会場の雰囲気を見る限り、割と多くの人間が意義を考えず、人に流されるように集まっていた。
つまり、懐かしい友達が集まるから来よう、親が行けというから行こう、振り袖で着飾れるから行こう、人生に一度しかないからとりあえず行こう、という感じである。
まあ、かくいう私も葬式としての位置づけを確立させるまではそんな感じだったし、仕方ないだろう。

問題は主催者側である。
主催者側としては、「新成人を激励・祝福する」という役割があるはずだ。
しかし実際は、式の三分の一の時間を使ってよくわからない車いすダンスのショーを見せる、市長や市議長の祝福の言葉は聞き取りづらい(おそらく音響設備の問題)など、全くもってその意義を果たせていなかった。

その結果、式の途中にもかかわらず新成人たちが席を立って旧友との再会を喜び合うというなんとも言えない構図ができあがっていた。
これではただの晴れ着お披露目会&大規模な同窓会である。
わざわざ税金をつぎ込んで市内の新成人を全部集める必要性が微塵も感じられない。学校単位で勝手に集まっていればよい話である。

以上が成人式に参加した私の所感である。
式は意義を失い宙ぶらりんな状態、葬式としての位置づけもばかばかしくなるくらいの薄っぺらさだった。
来年以降は改善されることを願う。

しかし、懐かしい面々と久しぶりに会うことはできたし、家を出る前に親と話して得たものもあったので行ってよかったとは思っている。
ティーンエイジャーの自分とは、式が終わってから友人とラーメンを食べつつ決別した。
私には大規模なだけの式よりもラーメン屋の方が「人に成る」場としては相応しかったのかもしれない。
そういうものである。