迎春(もしくは春に迎えられて)

新年明けましておめでとうございます。
無事健康に新しい年を迎えることができて何よりです。

なんて言い方をよくしますが、我々はどのようにして「新年」というものを「迎える」のでしょうか。
迎える、ということは「新年」はどこからかやってくる、ということになりますよね。
行く年来る年、なんて言い方もあるのでやはり古い年はどこかへ去って行き、新しい年が我々のもとに訪れると考えてよいでしょう。

ちょっと視点を変えて考えてみましょう。
時間には流れというものがありますよね。流れというからには方向性があります。
その方向性は、言うまでもなく過去から未来への一方通行です。
SFなどで時の流れに逆らって、という言い方をする時、過去に向かうことを指すことからもこの方向性は明らかです。

さて、賢い読者の皆さんならお気づきでしょうが、ここにひとつの矛盾が生じます。
行く年来る年の考え方に従えば、我々のもとからは古い年が去り、代わりに新しい年がきます。
また、流れに乗っているものは、必ず上流からきて下流へと去ってゆきます。
つまり、新しい年が上流からやってきて、それに押し出される形で古い年が流れの先、下流方向へと去って行くと考えることができるのです。さっきの時間の流れの考え方と矛盾するのがご理解いただけたでしょうか。

しかし、感覚的には行く年来る年も時間の流れもどちらも正しいように思えます。
なぜ矛盾が生じてしまうのでしょうか。

少し話は逸れますが、皆さんも天動説・地動説というものをご存じだと思います。
読んで字の如く、夜空の星や太陽が動くのは天空そのものが地球の周りを回っているからだという説と、地球が回っているため相対的に天体が動いて見えるという説のことですね。
今となっては科学も発展して地動説が正しいことは周知の事実となりましたが、提唱され始めた頃の地動説は完全に異端扱いでした。なぜでしょうか。
当時は宗教との問題もあったようですが、それ以上に人間の心理に関わる話だと考えられます。
つまり、人間は無意識のうちに自身が世界の基準であると思いたがる傾向があるのです。特に、感覚的に大きな動きに関しては。

何が言いたいのかというと、時間に関しても同じことが言えるのではないか、ということです。
上で挙げた行く年来る年や時間の流れの考え方は、天動説的な時間の見方です。止まっている我々のもとで時間が動いているという考え方ですね。しかし、この考え方では矛盾が生じてしまう。

そこで、地動説的な時間論というものを考える必要性が出てきます。地動説的な時間論とは一体どのようなものでしょうか。
平たく言うと、我々が時間という概念の中を動いている、ということです。
時間という一種の直線的な概念の中を、我々は一方通行に動いているわけです。動いた足跡が過去と呼ばれるものになります。進む先が未来です。
そして、このとき我々が動いているこの方向性が、いわゆる時間の流れと一致します。
実際には我々が流れているわけですが、相対的に我々が体感する時間も進むように感じられるのです。

また、この考え方に則って考えると、我々は古い年から新しい年に向かって進んでいるわけですから、相対的に我々のもとから古い年が去り、新しい年がやってくるように感じます。これが行く年来る年的考え方の原因です。
このように、視点を変えて地動説的時間論を考えると、時間の流れに関する矛盾が解消されます。

この地動説的時間論、頭の片隅にでも置いておいてください。この考え方を持っていれば、時間に対してもっと能動的になることができるはずです。時間に追われることも、時間に必死にしがみつこうとすることも無意味に思えます。なぜなら、時間ははるか昔から問い未来まで我々を包み込んでいて、我々自身が自らその中を動いているのだから。

新年の挨拶のつもりが、だいぶ話が飛躍してしまいました。
改めて、明けましておめでとうございます。来年も笑顔で迎えられるように、いや、笑顔で来年に足を踏み入れられるように、頑張りたいです。皆様もお元気で。
それではまた。