風に吹かれて(ボブ・ディランを聴きながら)

こんばんは。まずはこの曲を聴いてください。










ボブ・ディランの"Blowin' In The Wind"(邦題「風に吹かれて」)です。
「どれだけの道を進めば一人前の人として認められるのか」という歌詞から始まり、様々な疑問を投げかけたのち「答えは風に吹かれている」と締めくくる彼の代表曲ですね。

ボブ・ディラン。曲は聴いたことがなくても、名前は知っている、という人も多いのではないでしょうか。
昨年のノーベル文学賞を受賞したことで、音楽を聴かないような人の間でも名前が知られるようになりましたね。
そうです、文学賞です。ミュージシャンがこの賞を受賞するのは史上初だ、ということで話題になりました。
今回は、この受賞から一年越しに音楽と文学について考えてみたいと思います。

ずばり、音楽は文学となり得るのか。

私の考えでは、ノーです。音楽と文学では次元が違います。
文学は目で鑑賞するものですが、音楽を鑑賞するには耳を使います。
鑑賞の仕方からして別物ですね。はい。

しかし、音楽は文学性というものをその中に兼ね備えています。
いわゆる、「歌詞」というやつですね。歌にのる言葉。言葉である以上、これには文学性が内包されています。

ですが、だがしかし、あくまで歌詞は耳で鑑賞する言葉です。
たとえば。「君は一人の人間だ、だけど独りではない」という詞を思いついたとします。
出来はともかく、ポエムとしては成立しますね。「一人」と「独り」の対比がなされています。

けれど、これは歌詞として成立するとは言えません。なぜか。音だけ聞くとどちらも「ひとり」。
「君はひとりだけどひとりじゃない」なんて歌われても、何やこいつ頭おかしなったんちゃうか、という感想しか出てきません。
ここに、音楽と文学の違いが見えてきます。

続いて。何度も言っているように、歌詞は耳で鑑賞するものです。
そして、ほとんどの場合にメロディーがついています。このメロディーがまたくせ者なんです。

たとえば、「君を愛してる」という歌詞があったとしましょう。ストレートに伝えようとしていて良いですね。
ですが、これが伝わるかどうかは、メロディーにかかっていると言っても過言ではありません。
伝わりやすいメロディーとはどのようなものでしょうか。その鍵は、アクセントにあります。

君を愛してる。アクセントを考えてみると、愛してるの「あ」が最も高く、後は平板ですね。
これを、たとえば「み」が高く「あ」が低くなるような音程でメロディーをつけてしまうと、違和感が生じてメッセージが伝わりにくくなってしまいます。メロディーと歌詞のアクセントをある程度は合わせなければいけないんですね。
ただただポエムにメロディーをつければ良いというわけではない。

なんとなく、音楽と文学の相違点についてわかっていただけたと思います。
ではなぜ、ディランはノーベル文学賞を受賞したのか。

上でも書きましたが、音楽にはいくらかの文学性が含まれています。
ディランはその文学性に対するセンスが高かったわけですね。言ってみれば、ディランの音楽は耳での鑑賞に堪えうる文学のようなもの。

次の文章は、冒頭で聴いていただいた「風に吹かれて」の歌詞の一節です。

How many roads must a man walk down before you call him a man?
How many seas must a white dove sail before she sleep in the sand?
Yes, and how many times must the cannon balls fly before they're forever banned?

各行の最後の単語を見てください。man, sand, banned と韻を踏んでいるのがわかりますね。
この押韻が、音を媒介とする文学では重要になります。漢詩なんかもその一例です。
韻を踏むことによって、すっきりとまとまって聴きやすくなります。
抽象的な多くの疑問を投げかけながらも、それぞれが韻を踏んでいる。その答えは風に吹かれている、なんて言われたらこれはもはや文学の領域ですね。
もちろんメロディーと歌詞のずれがないため、音楽としても非常にクオリティの高いものとなっています。

音楽の持つ文学性は、歌詞だけではありません。
曲やアルバムを通しての物語性。言葉ではなく音で表現されるストーリーですね。
音楽というのは、もちろん歌詞とそのメロディーだけで出来ている訳ではありません。
バックの演奏、リズム、歌手の声と歌い方。その他諸々の表現が積み重なったものが音楽です。
この時、歌詞を取り除いた要素でもひとつのストーリー性が生まれてくる、と私は思っています。
クラシック音楽の展開などはその典型的な例ですね。

せっかくなので、ここではボブ・ディランの曲を例に見てみましょう。
歌詞を気にせず聴いてみてください。









ディランの代表曲のひとつ、"Like A Rolling Stone"です。
再生ボタンを押すと、まずイントロが聞こえてきますね。これが物語の序章です。派手ではないが、何かすごいことが始まる予感のようなものがします。
それが終わると、ディランが語り始めます。徐々にバックの演奏が盛り上がってゆき、ディランの歌い方も少し変わり、1回目のサビがきます。
間奏を挟んで二番の歌詞に入ると、ディランの語りの抑揚が大きくなります。だんだんと盛り上がってきましたね。
三番では、物語はさらに熱を帯びてきます。静かに、しかし熱く、クライマックスに向かってゆきます。
そして、四番。全体的に音数も増え、ディランの歌い方にも熱が入ってきます。熱が入りすぎて、サビの歌詞を食い気味に歌ってしまう。ここがクライマックスですね。
あとは、ハーモニカのアウトロが、余韻を残しながらフェードアウトして、物語が終わる。

なんとなくおわかりいただけましたか?歌詞がわからなくても、音の雰囲気でストーリーを語ることができるのです。これも一種の文学性ですね。

はい。結論としては、音楽と文学は次元の異なるものではあるが、一種の親和性を持ち合わせている、ということです。

いろいろと書いてきましたが、これはあくまで私の理論です。
芸術には人それぞれ鑑賞の仕方があります。100人の人間がいれば100通りの解釈がある、これが芸術です。
絶対的に正しい答えなんてのはないんですね。ほら、ディランも歌っているでしょう。
「答えは風に吹かれている」と。

それではまた。